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函館・西ヶ原・砧 あの頃 - 最新エントリ

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最新エントリ
2007/08/04
カテゴリ: ストアー : 

執筆者: y-jimbo (11:40 am)

1.映画三昧 特に任侠映画への入り口・・・函館
 
 所謂「やくざ映画」なるものを観て、そうしたジャンルの存在を意識し、好んで通い詰め、のめり込んで行った切っ掛けが「博徒(東映 監督:小沢茂弘)」。親元を離れた高校一年の初夏、海峡の街函館、東京オリンピックの年、昭和39年の事。匕首、鳶口或いは鶴嘴、時代劇とは違う髷の無い現代に近い近代の暴力性。斬られた頬の傷を、内側から舌でなぞる鶴田浩二の頬の動きに圧倒され絶句。その閉鎖社会の掟に共鳴するものが、まっこと己に存在する事を自己確認。「東映任侠映画」は義理人情が織り成す、覗く事のなかった未知と禁断の世界。そして鮮やかな様式美に彩られた、仇花開く羨望と憧憬の岸辺。
 高校生活三年間、始めは日曜日だけだった映画館通いが二軒、三軒と梯子になり、土曜日が加わり、学校帰りの平日も当たり前になるのに長い時間は不要であった。亦、「夕陽の丘」ロケで遠目に見た裕次郎が切っ掛けで、「日活アクション映画」の面白さにも目覚め、銀幕への拍車は掛かりっ放しとなった。
 二番、三番館或いは番線館と呼ばれた「新宿昭和館(2002年4月閉館)」的映画館が、地方都市にも数多く存在し、その大半は当時の五社(松竹、大映、東映、東宝、日活)の旧作三本立てを週替わりで興業していた。観逃した作品を日々追い掛ける「函館テアトル」「銀座日劇」「湯の川映劇」「五稜郭東劇」等々、必然的に併映作品も観ることになり、当時の邦画をほぼ網羅して、本業の学業は落ち目の裏街道を辿る事となる。


2.映画三昧 幽かな思い出・・・チャンバラ、西部劇等

 映画の記憶を手繰ると原体験であろうものとして、モノクロームの暗いスクリーンに、刀を銜えた白い着物の丹下左繕が朧な姿で浮んで来る。父親が映画好きな事もあって、割と観に行っている筈なのだが、そのはっきりした記憶は西部劇は「シェーン」、時代劇は「七人の侍」までは無い。それ以前は鰐の群れが一斉に動き出したり、ペイントを施して踊り狂うインディアン、密林に無気味に響く太鼓と木々が激しく揺れる様、と言った断片があるのみである。
幼い友達同士の幼いコミニュケーションの中で、ジョンエン(ジョン・ウェイン)やゲリクパー(ゲーリー・クーパー)と言い合った記憶があるが、懐かしさを覚え、粗筋を途切れて辿る事の出来る映画体験は「新諸国物語 笛吹童子」「ゴジラ」からである。
昭和23年生れ、団塊世代の私にとって映画の洗礼は、「東映チャンバラ映画」と「東宝怪獣映画」との遭遇であり、「少年探偵団」「月光仮面」「赤胴鈴之助」等の「お子様活劇」が通り来た道であろう。盆暮れに「忠臣蔵」と「清水次郎長」を繰り返し観せられ、「連合艦隊」や「日清・日露」を観るに至って、立派なナショナリズムと「亡八」の恥じを無意識に纏って自我の目覚め世代を迎えた。
裕次郎とアキラ、そして吉永小百合の「日活」が盛りを誇っていた中学生時代に、私の視線は「ウエスタン・ブーム」の真っ只中にあった。「シェーン」「駅馬車」「真昼の決闘」「荒野の決闘」・・・題名を挙げればきりがない数の旧作がリバイバル上映され、「荒野の七人」「コマンチェロ」「アラモ」等の新作がブームに拍車を掛けていた。何時の日かモニューメントヴァレーとピ−スメーカーを、と夢に見て米製玩具マテル社のSAAをスピニングしファンニングする毎日だった。背丈の馴染みからかオゥディ・マーフィが好みで、あらゆる西部劇のエッセンスをかき混ぜた様なB級西部劇の銀行強盗、縛り首、インディアン来襲、騎兵隊迎撃、追跡捜索、決闘等何でもありに嵌って、0.0何秒かのファストドローに余念を持たない中学生であった。
大陸を西へ西へと支配権を拡げて行くアメリカ人は、あくまでも侵略者ではなくフロンティアスピリットに溢れる開拓者で、駆逐される先住民族インディアンは獰猛な襲撃者、と言う図式が罷り通った時代であった。


3.映画三昧 開眼・・・東映任侠映画と日活アクション映画

「お子様活劇」から続く「時代劇」も、相変わらずよく観ていた。「旗本退屈男・早乙女主水之介」の華麗流麗な太刀捌きと豪華絢爛な衣装や、千恵蔵の金四郎や錦之助橋蔵の小粋な股旅姿等々、娯楽の王様は「東映時代劇」であった。そんな眼に、「用心棒」の裂音響く太刀筋の真迫だろう殺陣が飛び込み、忽ちその虜になって居た。続く「椿三十郎」逆手に鞘走らせる殺陣と血飛沫に狂喜し、TV映画「三匹の侍」が「忍者秘帖 梟の城」や「十三人の刺客」に繋がって行った。併映される「東映ギャング映画」は際限なく連発するようなGUNアクションに幻滅し、同じ様な理由で「日活無国籍アクション映画」を拒否し、ポスターに見た「人生劇場 飛車角(監督:沢島忠)」は時代遅れのおどろおどろしたものを感じ、端っから拒絶していた。
こうした喰わず嫌いの指向は今も健在で、リアルタイムの体験をしばしば逃している損な結果を享受しているように思える。荒唐無稽だからこそ、無国籍故にこそ存在する、ここで限って言えば「日活アクション映画」の面白さの旬を見落とし、冷凍保存もので味わう残念な結果となってしまった。僥倖は「飛車角」で拒絶したおどろおどろしさが嗜好に合致する事を「博徒」で発見し、「東映任侠映画」のほぼ幕開けから終焉まで見続けられた事であった。


4.映画三昧 東映任侠映画・・・幕開け

 「人生劇場 飛車角」を「東映任侠映画」のスタートと見る向きもあろうが、「東映任侠映画」は同傾向作品の「群」であって、終始の線引きの出来るものではない。「人生劇場 飛車角」は裕次郎の「花と竜」を観た東映首脳が、この種のものなら東映のお手のもの、向こうが「火野」ならこちらは「尾崎」的発想で企画されたものと言う。63年3月公開の「人生劇場 飛車角」前後の封切作品を見ると、所謂「東映任侠映画」と目されるものは無く、ギャング、警視庁、忍者、歌謡曲、捕物、股旅、サラリーマン物が並ぶばかりで、同社の作品傾向は固まっていたとは言えず、むしろ暗中模索、試行錯誤の真っ只中にあったと言えよう。
その体裁を持った作品が散見されるようになって来るのは、それから1年後64年7月「博徒」の封切からであった。、翌月封切の「日本侠客伝(監督:マキノ雅弘)」を得るに当って「東映任侠映画」は、博徒に代表されるやくざ者ばかりか市井の「おとこぎ」まで、世界を拡げ描く事によって、そのグランドを確保したと言えよう。そして65年4月の「関東流れ者」「網走番外地」の公開に至って、「東映任侠映画」は「群」としての確固たる位置を占め、以降十年に亘る隆盛を見せるのであった。


5.映画三昧 何と言っても東映、日活そして大映

 G・W前に「夕陽の丘(監督:松尾昭典)」を、夏休み前に「博徒」を見終えそれぞれの面白さを実感した高校一年生は、彷徨う場末の映画館で同傾向の作品を貪っていた。おどろおどろしかった「人生劇場 飛車角」は言うに及ばず、「男の紋章シリーズ」や「夜霧のブルース」「太陽への脱出」等々、「東映」「日活」取り混ぜての三本立に併映される、スターシステムのシリーズ物を綿密に組み合わせていた大映作品にも及んで行った。二番、三番館にも五社の系列が有った様で、どうしても「東宝」「松竹」作品に接する事が少なかった。
「夕陽の丘」は広小路に在る封切館、今は競輪車券売り場になっている「函館日活劇場」で観たと記憶している。函館ロケ作品と言う事も足を運ぶ切っ掛けでもあったが、その春に合格通知を受け下宿の下見に出て来た帰りの、汽車時間待ちに観た観た「赤いハンカチ(監督:舛田利雄)」で「日活映画」の面白さに目覚めていたこともあった。
また、後に渥美清が「男はつらいよシリーズ」の初期に挿入歌として唄い、ささやかに知られたであろう北島三郎の『喧嘩辰』を主題歌とした「車夫遊侠伝 喧嘩辰(監督:加藤泰)」を観たのもこの頃。「恋と言う奴ァド偉い奴よ 俺を手玉に取りゃがった・・・」。下宿先で観ていたTVドラマ南原宏治の無法松に重なり、やはりTVドラマ「姿三四郎」の敵役であった、と言うより常に敵役であった内田良平に思いを入れている自分に驚いた事を思い出す。


6.映画三昧 消え逝く時代劇と国民的歌手三波春夫の誕生

「東映任侠映画」と秤に掛けられる様に製作本数を縮小して行く「時代劇」にあって、正統股旅物とも言える「瞼の母(監督:加藤泰)」と「関の彌太っぺ(監督:山下耕作)」に興奮したのもこの頃であった。この二作品と合わせて、錦之助(あくまでも中村であって、断じて萬屋ではない)股旅三部作とも言える「遊侠一匹 沓掛時次郎(監督:加藤泰)」はもう少し先、高校三年の時に出会った作品であった。
手を変え品を変えて語り尽くされた物語、そしてこの先「東映任侠映画」の筋立てを「忠臣蔵」と共に支えて行く「瞼の母」は、季節を違えて三人の母を表出させ、夫々の子を思う母の気持ちを、計算されたセットの美しい空間に見事に描き上げていた。母と妹の声に背を向けて、加藤泰監督の大好きな「橋」を渡って、対岸に消えて行く忠太郎に、自然と涙腺が緩むのを止められなかった。『ところは江洲坂田の郡、醒ヶ井村から南に一里、磨鉢峠の山の宿場で番場と言う処がござんす・・・』等と、密かに名台詞を暗記し悦に入っていた。
年齢の割りに古いものが好きで、今でも女房に「・・生年月日、誤魔化してるンじゃない・・・」と言われる様に、例えば流行していた「和製ポップス」や「青春歌謡曲」よりは断然「三波春夫」であった。丁度「東京オリンピック」開催の年で、三波春夫を「国民的歌手」に押し上げてしまった「東京五輪音頭」が、各社競作の群を抜いて空前のヒット曲となっていた。確かに三波春夫の本質的に明るい歌声は、「戦後」に終わりを告げる一大イヴェントに相応しいものであったが、私にとっての三波春夫はやはり「止めてくださるな妙心殿、零落れ果てても平手は武士じゃ、男の散り際だけは知っております、行かねばならぬ、行かねばならンのだァ」の「大利根無情」であり、「一本刀土俵入り」「忠太郎月夜」であった。そうした「三波春夫の世界」を具現して呉れたのが、任侠映画出演とバータの様に制作された中村錦之助の股旅物であった。


7.映画三昧閑話 モデルガン握って、大藪春彦に嵌って・・・
 
 大藪春彦の「蘇える金狼」「野獣都市」に出会い、「野獣死すべし」に遡り読み漁ったのもこの頃で、中学時代の幽かな出会いが蘇った結果であった。現在も有るであろう学年に合わせた一応の学習補助雑誌が、中学生向けなら「中一コース」「中一時代」的に当時も在り、そうした雑誌の中から創刊されたばかりの「ボーイズライフ」なるものを選んで中学に進んでいた。手にしたそれは何の事は無い、勉学を志す新中学生の向上心に水を注すような、学習補助の乏しい娯楽雑誌然としたもので、連載か読切りかは忘れたがそうして出会ったのが大藪春彦の名であり「拳銃天使」であった。メインの連載は「月光仮面」の作者川内康範の少年戦記物であったと記憶するが、未完のうちに本誌自体が廃刊となってしまうと言う、お粗末な顛末がおまけであった。
 棒状の布袋に砂と鉄粉を詰めた「ブラックジャック」なる武器の存在を教えて呉れた「拳銃天使」の、印象と過大な記憶が朝倉哲也に具象化された「蘇える金狼」は、初めて触れた「ハードボイルドの世界」を堪能させて呉れた。尤も、「ハードボイルド」が何たるかを解して読んでいた訳では決してなく、拳銃の出て来る暴力小説として読み漁ったものであった。「凶銃ワルサーP38 皆殺しの歌」「凶銃ルガーP08」のタイトルに惹かれ、伊達邦彦の偶像を夢見て、MGCのモデルガンを磨き上げながら、自分では不敵と思える笑いを浮べ、衣川恭介を気取っていたのが路面電車を十字街で降りる、函館船場町「小幡物産」の二階、八畳二人部屋の下宿であった。


8.映画三昧閑話 函館郷愁交々 谷地頭温泉、朝市

 最初の同部屋人は共に苫小牧から出て来た同期生で、机に向っている時間は遥かに抜き去られていた。一応、進学と言う意向を持って函館に出て来た訳でもあり、同宿人の影響も充分にあり、それなりの時間を机上に費やし、それなりの成績を修めていた時期もあった。そう過去の一時期を美化しておきたい。
己一人では息抜き的時間の頃合と長さをコントロール出来なかった進学校生は、机上時間との配分を故意に誤り、散歩と称しては未知の小道を徘徊していた。参考書に託けて本屋を巡り大藪春彦をめくり、興味の赴くまま雑貨屋を覗き「真田紐」を見付けて感激し、三個十円の「おやき」や子供が買い食いする様な「やきそば」に舌鼓を打っての散歩であった。十字街に在った二件の銭湯を皮切りに、西に東に銭湯への足を伸ばし、更には路面電車に乗っての銭湯巡りも大事な息抜きの時間であった。
 何かの拍子に徹夜をしてしまった、と言うより夜更かしが過ぎた中途半端な時間から、何する訳でもなく夜明けを待った日曜日、早朝から営業している谷地頭の温泉や朝市に出向くのが好きだった。市営入浴施設である市民温泉の在る谷地頭は、十字街から路面電車で三つか四つ先の終点で、啄木一族の墓を経て立待岬に至る道の入り口にあたる。護国神社や函館公園の脇を抜けて、「・・・悲しけれ、友の恋歌、矢車の花」の青柳町を通る山裾の道は、徘徊好きには手頃な散策路であった。鉄分が多く含有する薄茶褐色の市民温泉は洗い場も広く、湯壷も幾つか在って立ち込める湯気に朝日が射し込み、湯治場とは然も有りなんの風情を持っていた。お湯の色に染まった手拭を腰に、湯船の縁を枕に寝転ぶお年寄りの姿は、よりその感を増幅させて呉れた。
 朝市へはもう少し近かった。十字街と函館駅を結ぶ電車通りの一本港寄りの、豊川稲荷や日魯漁業の前を抜けて駅へ向う一昔前の繁栄を幽かに名残ませた一本道で、今の国際ホテルの少し先に朝市はあった。観光朝市でなかったその頃の朝市は、物珍しい風景であり、飛び交う浜言葉が違和感を持って新鮮で、買い食いの衝動に駆られ、そそられる空間であった。話し言葉が比較的標準語に近い北海道弁圏から出て来た者にとって、イントネーションの違う函館の言葉は将に圏外であったが、ここ朝市で飛び交う乱暴で素朴な浜言葉に比べると、それも境界線に位置する様に思えた。
 そして、連絡船の出航て行く風景が好きだった。駅からの長い連絡通路を渡って来る朝市にほぼ隣接した桟橋には、未だ銅鑼の響きも五色の紙テープの別れが有り、海峡の出船に内地(本州)とのドラマが有った時代だった。


9.映画三昧閑話 十字街にあった映画館「銀映」「銀座日劇」

 過って繁栄した土地の名残が、其処彼処に残っていたのが十字街辺りで、「銀座」なる呼称もそれを物語っていた。十字街から谷地頭に向う電車通りと並行する、一本駅よりの通りは充分にそれを窺わせ、その昔はモダンで高層だったろう石造り建造物の一階に店舗が歯抜けで張り付いていた。市場、船員宿泊施設、未だ料理屋を営んでいる料亭だったらしき建物、銭湯に並んで紅灯の料飲店等が、朽ちかけているような街路樹に映えていた。
 銀座映画劇場の略称を館名としたであろう「銀映」は、電車通りに面した「洋画」の封切館だったと記憶している。電停「松風町」を中心とする当時の繁華街、通称「大門」の「函館映劇」と並んで所謂大作が上映されていた。自分には何本かの西部劇を観に行った事がある、舗道まで突き出した「武器よさらば」のドロ絵具看板が目に浮んで来る映画館である。
 「小いけ」「祐寿司」のある小路を左に、電車通りを行った次の角が護国神社へ登る坂道の麓で、「高田屋嘉兵衛」の像の在る通りに「銀座日劇」は在った。豪快な太刀捌きの近衛十四郎「柳生武芸帖」シリーズを知ったのは、廃館間近なこの「東映」中心の典型的な三番館であった。「武芸帖」シリーズは「ニュー東映」時代から続くもので、当時観る事が出来たのは63年の「片目の十兵衛」辺りからであり、それ以前の作品は未だに観る機会を持てないで居る。シリーズではないが、潜入した間者を見極める為に、嫌疑の者数人を次々と斬っていく非情な残忍さを見せた「忍者狩り」の、暗く押さえられた画面に魅入り手に汗を握っていた。「暗く押さえられた画面」は廃館間近の設備故だったかは定かではないが、割れたスピーカーの斬殺音が暫く残響していた。
廃館後は市内でチェーン展開をしていたスーパーマーケット、「ホリタストアー」に替わっていた。現在「ホテルJALシティ」の建つ辺りの、四十年前の朧覚え事である。


10.映画三昧閑話 函館郷愁交々−幼い味覚の目覚め、十字街

下宿先「小幡物産」裏から繋がる煉瓦造りの「金森倉庫」を中心とした西浜岸壁には、ソ連との漁獲量交渉を待つ北洋船団が繋留され、独特の色彩で彩られた大漁旗がはためき、北島三郎の「なみだ船」が目一杯の音量で流され、沖仲仕が行き交ったのがこの時代、この時期の風物詩であった。交渉妥結の朝、船団が先を争うように一斉に出航した、祭の後の様な日常を取り戻した西浜岸壁のいっぷく時は、陽だまりに筵を盆茣蓙の「コイコイ」広場、そんな波止場の倉庫街は「ウォーターフロント」なんぞと名を変えて、函館西部地区元町観光の要となっている。
「いがーァー、いがーァー」の朝靄に響く売り声を、夢うつつに聞いた寝惚け眼の下宿生に、「朝ごはん、イカ食べる」と襖が開けられる。膳に出された丼いっぱいの「いか刺し」に眼を見張り、生姜と醤油で掻き込んだ朝ごはんは、差し詰め今ならより細く切り裂かれて、そばつゆで食す「いかそーめん」の前進なのだろう。美味しいもの、誠に勝手な味覚と嗜好に目覚めたのが、この下宿から始まった、夢を抱いて出て来た函館ラサール高校の三年間であった。それは、夢に縋って努力のなかった、夢に破れた三年でしかなかったのだが・・・・。
「バター」の味が慣れ親しんだものとは違う。『このバター美味しいねェ』『トラピストのよ』。「ベーコン」が違った。『このベーコンは』『レイモンさんの』。現在のように全国区の大量生産ではなく、函館市内でも限られた数ヶ所にしか売られていない時代であった。その頃は無かった言葉で言うと「手造り」の味覚に出会った幸せは、帰郷時のお土産として送り出して呉れた家族に御裾分け、金の出何処を頓着する知恵は無かった。「祐寿司」の「尾のみ」、「小いけ」の「カレー」を教えられたのもこの下宿で、二件とも十字街から宝来町へ歩く電車通りを左に入った露地に並んで在った。「小いけ」はとんかつ、かつどんも美味しかった。カツレツ風に焼き揚げられたぶ厚いとんかつは、付け合せのレーズンの入ったポテトサラダと良く合ったし、かつどんは卵でとじた真ン中に目玉焼き風に落とされた半熟卵が、何時も炊きたて状態に保たれたご飯に良く馴染んでいた。
ジャガイモを潰したもののフライがコロッケ、少し高級になると挽肉が混ぜられているものと思っていた口に、「世の中に、こんな美味いものがあったのか!」と言う衝撃を与えて呉れたのが、「五島軒」の「カニクリームコロッケ」だった。


11.映画三昧閑話 函館郷愁交々−ラーメン考

「宝来軒」のつぶ貝が入ったやきそばも美味しかったし、そしてラーメンも。その頃の函館のラーメンは、薄っすらと出汁色の、澄んだスープの塩味で、醤油色スープ味に馴染んだ眼には奇異なものに写り、最初は戸惑いを覚えたものだった。「宝来軒」もそうだったが、「汪さん」「王さん」「紅蘭」等で出される澄んだ塩味は、誠にアッサリとしていて味わい深く、すぐにそれが当たり前の味になって行った。後年、下北半島大間で食べたラーメンも同じ見た目と味であり、海峡を挟んだ「文化」の様なものを独り善がりで納得し、さらにその後、苫小牧のきりたんぽの店で出されていたのも同じ見た目と味だった事から、塩味ラーメンの文化圏が秋田にまで拡がっていると、これまた独り善がりで確信。「札幌ラーメン」隆盛前の、勿論ラーメンのテーマパークなるものが有ろう筈の無い、食文化に色濃い地域性があった時代の思い出は、私に単純な食文化論を想起させて呉れもする。苫小牧の秋田郷土料理店「勘ちゃん」は、ご主人がお亡くなりになられて既に閉店されています。
近年、「味噌の札幌」「醤油の旭川」「塩の函館」と色分けされ、各々個性溢れる美味が我々の味覚を楽しませて呉れているが、「函館の塩」は昔ながらの「函館のラーメン」とは違うものである。「紅蘭」の看板が朽ちて落ちていたのに落胆した数年前、健在な「王さん」で出されたラーメンは懐かしい「函館のラーメン」だった、そして「来々軒」のも。
直営店も在ると言う、一期生の先輩と聞く「岡田製麺」の家庭調理用袋入り、「まめさんラーメン」の「塩味」も限りなく懐かしい「函館のラーメン」の味であった。


12.映画三昧閑話 函館郷愁交々−元町界隈、坂道小路 「夕陽の丘」
 
 アーケードが架かり街頭放送が流れ、市電が走りデパートが在った十字街はそれなりに賑わっていて、苫小牧から出て来た者にはプレイガイドも在る都会であった。しかし一本通りを入ると、若しくは電車通りを半町も行けば、その賑わいが消えていた十字街の様は、既に街の中心が駅前地区に移ってしまっていた元繁華街の、滅び衰退して行く足掻きの様な最後の輝きだったのかもしれない。
十字街から臥牛の山裾に続く坂道には、生活があり風情があった。個人的懐古趣味を差し引いても、今は少なくなってしまった生活の匂いが充分に感じられる風景があった。格子状の外扉を持つ操縦技術の難しそうなエレヴェーターのあるデパート、「丸井今井」を右に見る様に電車通りを左に折れて、真っ直ぐ登ると「函館山ロープウェイ」乗り場へ通じる「南部坂」を行った最初の四つ角「竹田病院」のある通りは、丁度、電車通りと並行する等高線一本函館山寄りの道で、言わば生活道路で電車通りとは趣を違えていた。「丸井今井」を中心に老舗然とした商店や問屋、銀行、水産、海事会社、商事や物産会社等の石造りや和洋折衷木造二階建てが軒を連ね、斜陽の中にも繁栄の面影を見せていたのが電車通りで、この山寄りの道は繁栄のない継続の、生活に密着した商いを営む、軒の低い古い近世の仕舞屋が多くを占める様な通りだった。尤も、「五島軒」もこの通りに在り、「中華会館」や「旧領事館」等の洋館が用途を変えて使われているのも散見され、押し並べて「古い低い町並み」とは言えないが、どちらにしても「古い近代」に支配されているのが「函館」であった。
魅入られ始めた「東映任侠映画」の舞台に似通った佇まいと時代の雰囲気を、勝手に自己醸成していたのかもしれないが、この通りを歩きながら見かける、そして見上げる或いは見下ろす景色と空気に「函館」はあった。「東本願寺別院」の大きな瓦屋根のところから見下ろす「二十間坂」は電車通りを横切り、下りきった左手「金森倉庫」への入り口の我下宿を見て、今の「明治館」を経て製氷工場辺りまで続くのが見えていた。「明治館」は当時事務用品問屋の倉庫として使われており、その前身は「旧郵便局」だったと言う。
「元町カトリック教会」「ハリスト正教会」「聖ヨハネ教会」等の並ぶ「大三坂」辺りは、「夕陽の丘」の裕次郎が歩いた道、そして路、径・・・。「チャチャ登り」なる急な坂も在り登りきったところは、「函館の街」のしな良いフォルムを山頂に至らずも、手前に教会の尖塔を配した自分好みの構図で観る事が出来るところであった。元町散策のハイライトは「函館西高校」の石段を背にして、港を望み見下ろす「八幡坂」の風景で、現在もなお多くのドラマやCMの背景に切り取られている。左手前に白百合高校のあった石畳と並木の坂道を、連絡船の桟橋を遠く正面に見ながら下る足に擦れ違うリアーカーの餅屋、行商のオバさん達、横切る路面電車、ただただ、それだけで充分に「函館」であった。
尤も当時に、その様な郷愁に酔いしれてばかりいた訳ではなく、新旧の、むしろ旧に支配された中に、新の入り混じる古くさい景観と風習に違和感を覚えてもいた。「レトロスペース」として最近よく紹介されている「来々軒」もこの界隈にあるが、当時存在は知っていても「薄汚さを思わせる古くささ」を先に感じ、今ひとつ足を向ける気がしなかったのが正直なところであった。「レトロ」が単なる「レトロ」ではなく、古いものが必死に存亡を賭ける時代であり、佇まいに普通の「生活」や「営み」があった時代であった。
白百合高校は移転し、桟橋には廃止になった連絡船「摩周丸」が繋留され「資料館」と「シーポートプラザ」なる土産品売り場になってはいるが、「八幡坂」から見る遠目には昔を今にの趣を残して「函館」である。

13.映画三昧 TV番組雑感「夕日と拳銃」「忍びの者」・・・・・

「夕日と拳銃」「忍びの者」「図々しい奴」、題名は不確かだが藤竜也郷L蠅如崚呂蠶察廛轡蝓璽困鮠討直した様な「特捜シリーズ」、「無法松の一生」「俺は大物」「王将物語」等、コントラストの薄い白黒の丸みを帯びたブラウン管画面に見入っていた下宿の茶の間、勉学に疲れた身の大事な息抜きの時間、そしてそればかりが続く日々。
可能なものは原作を手にし、地平線に沈むであろう満州の夕陽に、草深いであろう伊賀の隠し砦に、東映任侠映画にそぐうであろう北九州や浪花の街に思いを馳せていた。大藪春彦共々購買雑読流し読みの、余りにも断片の欠片しか記憶に残らない、小説への思い入れ第一歩がこの頃だったようである。
壇一雄原作「夕日と拳銃」が東映で映画化(監督:佐伯清)されたのが昭和31年、当然勇払原野でロケが行われたのはその前の事。伯父の営む写真館でルパシカ姿の主演東千代ノ介の撮影があり、一緒に納まった一枚の写真が黄ばんで何処かに眠っている筈。
TV版「夕日と拳銃」は工藤堅太郎主演で、垢抜けない田舎の兄貴的雰囲気が原作にある伊達者に嵌って適役に思えた。ロケ地は不明だったが鮮明でないブラウン管を通した、適度に拡がりを見せる草地や荒れ野が舞台の満州を掻き立て、黄緑江、黄河、ゴビ砂漠、砂塵、馬賊等何処か西部劇に通じ、スケールを過大にモデルアプローチして次週の楽しみなドラマであった。
憧れの「綾子=オネイシャマ」は元参議院議長扇千景元大臣で、代議士先生は「昭和残侠伝 一匹狼(東映 監督:佐伯清)」「無頼 無頼非情(日活 監督:松尾昭典)」でも艶やかさを見せていた。
昭和37年の「忍びの者(大映 監督:山本薩夫)」から昭和41年「新書・忍びの者(大映 池広一夫)」まで、シリーズ8本を数えた市川雷蔵の大映作品のTVドラマ化で、主演品川隆二が当り役「焼津の半次」の軽佻浮薄さを消し去ってシリアスな演技を見せていた。この辺りの、どちらが先かと言う記憶には全く自信はなく、「忍びの者」のイメージから「焼津の半次」のコミカルな品川隆二に驚いたのかもしれない。そう推測できるのは、この年の冬上京して、当時北海道では放映されていなかった、腕は立つがそっそかしくお人よしの二人が大暴れするTV映画「素浪人 月影兵庫」を観た記憶があるからで、猫嫌いの素浪人兵庫の近衛十四郎に絡む相方が、品川隆二の渡世人「焼津の半次」であった。
「東映」が先行していた「忍者映画」に対抗するものとして、村山知義原作山本薩夫監督で制作された第一作「忍びの者」は「忍者映画」と言うより、「忍び」のシリアス性と土着民衆を意識した方向性を持っていた。そうした作品のTV化で支配と被支配、懐柔と操縦等考えさせられる側面を持った作りで、かなり重苦しさを感じながら見入っていた。伊賀だ甲賀だ猿飛佐助だ、とチャンバラごっこで名乗り合い手製手裏剣を投げ合ったカッコイイ忍者の裏面を見たようで、殊に競い合う百地と藤林の二大勢力の領袖三太夫と長門守が同一人である事への理解は、それまでの幼い常識を見事に覆す衝撃を感じもした。
本家大映作品も主演雷蔵は代わらずも、「石川五右衛門」「霧隠才蔵」「霞小次郎」と主役が代わって本数を重ねる毎に、正統娯楽時代劇作品へ変貌して行った。


14.映画三昧閑話 函館郷愁交々−すき焼き、洋食、そば

 「あさ利のすき焼き」、旅行情報誌等に散見するその名は、当時のまま電車通りに現存する風格ある建物と共に懐かしいが、高級すぎる憧れの老舗の味。大衆的スキヤキは我等「奇術同好会」が、勿論「酒」無でコンパに饗した函館駅前の「ブタ」もあった「三ツ輪」?「三ツ和」の名が浮ぶ。五稜郭公園他、幾つかの店舗が在ったと記憶するが・・・。
 「松風町」電停前の「大新」、「弁慶餅」を入った露地だったと思う「館」、そのもう少し大森町寄りの「ピポット」等々。歴史ある港町の面目躍如、と言ったところなのだろうか、「五島軒」を筆頭として多くの洋食屋が美味さを営んでいた。デパート「棒二森屋」の近くに在った「からす亭」の、レーズンの入ったドライカレーは美味しかった。余り大きくない店内の、テーブル席の壁面ガラスケースにはモデルガンが数丁飾られていて、頻繁ではないがお気に入りの洋食屋さんだった。十年程前になるだろうか、五稜郭公園付近で同名の看板を見掛けたが、同じお店で、あのドライカレーは健在なのだろうか、気になりつつも未だ訪ねる機会に恵まれない。
 「はし善」「丸南本店」「三貞」「やたら屋」等々、そば屋は大小沢山あり「そば」も「カレー」も美味かった。「丸井今井」横の坂にあった「東京庵」の「カレー」には、竹の子が入っていた違和を思い出すが、それはそれで美味しかった。「銀座」と呼ばれた名残のまだ有った「高田屋嘉平像」辺りの、「カネ云々山田?」の素人っぽい「そば」が気に入って、散策ついでに立ち寄ってもいた。函館駅ホームの立ち食いそばの、妙に甘塩っぱい「そばつゆ」もたまには良かった。函館駅と言えば、当時売られていた「身欠き鰊弁当」、甘露煮で柔らかくなった本来堅い身欠き鰊を乗せただけの駅弁だったが絶品だった。現在は「にしんそば」に乗せられているような、柔らかい鰊が乗ったものになっているのが残念に思う。
 名前の欠片も思い出せないが、湯ノ川温泉旅館「新松」の四つ角にあった「手打ちそば屋」は、今であれば確実に良心的味覚情報誌に採り上げられる「味」であったのが懐かしい。三年生一年間の下宿は、この店の隣だった。


15.映画三昧閑話 函館郷愁交々−船場町小幡物産と下宿の同宿人たち

 柏木町の材木屋、衣料問屋、新川町の建築屋等、市内から来ていた級友宅に遊びに行くようになった頃、下宿である「するめ問屋 小幡物産」のお姉さんの結婚式があった。台所で洗い物をしていて、婚約指輪を流してしまい、ドブさらいに駆り出された思い出が懐かしい。それまで勤めていた銀行の建物は、そのままの外観を残して現存し、「ホテルニュー函館」として営業している。結婚式が挙われたのは「五島軒」で、当時でも古くさい和洋折衷の建物であったが、使い込まれ磨き込まれ活かされた「レトロ感」には、只者でないぞと言った然るべきものがあり主張をしていた。ステンドグラスからの採光に、苫小牧の洋食店「第一洋食」のメニューに使われている川上澄生の版画を重ねて見ていた。
 下宿にはお兄さんも居て銭湯の帰りにスタンドバー、喫茶店に連れて行って貰いコーヒーの美味しさを知った。十字街の一角にあった、「珈琲苑」だったと記憶する喫茶店は今もあるのだろうか。春先に一階事務所脇の倉庫へ運び込まれ積まれている、「するめ」俵の相場の話や「さきいか」開発の苦労話等、まだまだ先を聞きたい事を残して、夏休み前に東京へ転勤して行った。
苫小牧から一緒に出て来て、勉学の程よい刺激を与えて呉れていたA君は二学期になる前、新築なった大部屋に二段ベットが並ぶ「寮」に越して行った。代わって同部屋になったのは、道央の産炭地から来た、皇族の様な名前のY君だった。打っても響かないおとなしい人で、全く話題に事欠く相部屋生活がひと月半程続き、こちらの自堕落に愛想を付かしたのか、夏休み後には消え入るように越していた。
 次の同宿人は森町落部辺りからの二年生、先輩のN君だった。最初の頃は「さん」と呼ぶも直ぐに「くん」になり、渾名の「チョン」に呼び名が変わるのに日数を待たなかった。連れ立って銭湯に行き、薬缶でインスタントラーメンを煮、僅かな筋トレを競う他愛無い先輩との相部屋生活だった。それだけ息抜きに関して自分に近い先輩は、クラリネットを趣味としていて、音楽関係の大学に進み次第に音信も途絶えて行った。後年、卒業生名簿で仙台在住を見つけ、赴く機会に連絡を試みるも宿泊先に連絡が無く、自宅に宛先不明の付箋が貼られた封書が戻って来ていた。
 別部屋にもう一人、留辺蘂からの先輩が新たに加わっていた。彼、Kさんは机に向うと言うより机と一体化しているような人で、その意味で余り記憶に残る人ではなかった。


16.映画三昧 やっぱり「やくざ映画」は「東映」 
 
 生意気盛りの不良性を秘めた年頃に、今までにない衝撃を与えて呉れた「博徒」は、思い返すとTV映画として観続けていた「図々しい奴」映画化との併映であった。メンバーの一人、植木等の「スーダラ節」のヒットから一連のキーワード「無責任」で人気の有ったコミックバンド「ハナ肇とクレージィキャッツ」の一員、谷啓の主演作であった。言わば「東映」御得意の他社企画戴き、「東宝」でヒットを続けていた植木等の「無責任男シリーズ」を意識した作品で、惚けた味の有った谷啓を以ってした二番煎じ作品であった。因みに「谷啓」の芸名は、函館出身の喜劇役者益田喜頓が「バスター・キートン」を捩った様に、本人が私淑する「ダニー・ケイ」から拝借したと言う。それなりに期待して観に行った「図々しい奴」は、「博徒」の前に跡形も無く消え入ってしまい、それから十年に亘る、否、今も続く私の「やくざ映画」遍歴が始まる事になる。
 忌み嫌っていた「人生劇場 飛車角」を始め、同傾向作品を辿る二番、三番館への旅は「東映」のみならず他社へも拡がって行った。「日活」は「男の紋章」シリーズの開始早々で、他に裕次郎や旭の馴染まない着流し姿が散見されていたが、やはり「日活アクション」に優ってはいなかった。「悪名」シリーズの「大映」では、「朝吉・清二」のそれより「眠狂四郎」「座頭市」と言った時代物シリーズや、軽妙なガンアクションが楽しい「犬シリーズ」に観るものがあった。「暴力街」「ならず者」「昭和侠客伝」等を見入って、「やくざ映画」はやっぱり「東映」としたり顔でスクリーンを後にしていた。更に過って馴染んでいた明朗道中物の延長「次郎長三国志」や、それとは違って心根に迫ってくる「関の弥太っぺ」で股旅物の魅力にも捕り憑かれてしまったが、未だ「博徒」を超えるものは無かった。


17.映画三昧 鶴田親分の渋味と健さんの粋、「東映任侠映画」の幕開け
 
 「監獄博徒」「博徒対テキ屋」、「竜虎一代」で鶴田浩二は、恐いもの観たさの不良性を持った観客を、覗き見させる未知の世界で完全に掴んでいた。義理と人情或いは仁義と掟、マゾヒズムとヒロイズム、男と女、白と黒等々、相反するも共鳴しあう情念の虚構世界を白い晒に捲き込んで、殉死の長脇差で「東映任侠映画」の様式美を開帳させて行った。
 そして「日本侠客伝」「日本侠客伝 浪花篇」での高倉健の登場があった。トッポいギャングから「暴力街」「人生劇場」の新境地に踏み込みつつあった高倉健は、錦之助が立場と都合から辞退した後の人気シリーズ「日本侠客伝」の主演に抜擢され、見事に監督マキノ雅弘の世界に嵌り込む。おとこ気を持った市井の心意気を、魚河岸や木場人足、火消しや鳶職と言った男世界と下町情緒に描いた作品は、高倉健独断の粋な世界を表出させる事に成功していた。尤もこの頃、監督を誰々と意識して観ていた筈もなく、ただただ話の面白さと主演スターのかっこ良さのみの映画三昧でしかなかったが・・・。
明確に博徒を生業とする鶴田親分を柱とした「やくざ映画」に、高倉健と言うおとこ気と粋をもう一方の柱として建てられ棟上された結果、「東映やくざ映画」は「東映任侠映画」へと発展深化して行く事になる。


18.映画三昧 海峡の空をひとり渡るギャンブラー・・・・アキラとムードアクションへの目覚め

「俺達の血が許さない」の映像に違和を感じながら、広小路に在った「函館日活」へはしげく足を運んだ。発売されたばかりのMGCモデルガン、S&Wチーフススペシャルを大きく扱ったポスターと語呂の良いタイトルに惹かれた「黒いダイスが俺を呼ぶ」で、ギャンブラー氷室浩次の小林旭に目覚め、「渡り鳥シリーズ」を観ていなかった不遇を知った。シリーズ一作「さすらいの賭博師」を追い駆け、三作目の「ギター抱えた一人旅」では「夢を訪ねて、昨日も今日も、俺は寂しい東京シェーン」と、主題歌に臆面もなく「シェーン」を唄い込むアキラの素晴らしさを知る事になる。
ブローニングハイパワーを持つ裕次郎が、横浜と神戸に主題歌を響かせる「黒い海峡」は、超望遠で捉えられた波止場の光景に観るものが有った。彩度を押さえた荒れた粒子の波止場で、左から右に横切る大型貨客船をバックに描かれる、交わらぬ会話を交わす場面は出色で、定着した「ムードアクション」の意が何たるかを知った気がした。後年見直した時、「ムードアクション」に於ける浅丘ルリ子の偉大な功績に気が付くが、当時は十朱幸代のイメージを上手く使っていただけで充分な裕次郎十朱の初競演作であった。


19.映画三昧 ジュースで乾杯解散式・・・・「大映ニュース」で見てしまった頬の疵

あの日ローマで眺めた月が、今日は都の空照らす、四年経ったら又会いましょうと、固い約束夢じゃない・・・「脱戦後」の大イヴェント「東京オリンピック」が終わり、三波春夫の歌声も聞かれなくなった頃、新たなヒット曲が生まれた。仮住まいの三年間に巡り会った、大袈裟に言えば僥倖とも言うべき、将に「函館」に相応しい北島三郎「函館の女」が流れ始めていた。
製作会社系列の封切館では本篇上映の前、「予告篇」と共に余りタイムリーではない「ニュース」を流していた。その「大映」版「大映ニュース」で見てしまったのが、「ジュースで乾杯・・・」の安藤組解散式で、声明文を読み上げる安藤昇組長とその頬の疵だった。「安藤組 安藤昇」の何たるかを知る由は当然なかったが、「やくざ映画」ファンとしては何かしらのインパクトを覚えてもいた。勿論翌年、自伝「激動」を著し、その映画化「血と掟」で映画俳優へ転進するなどとは、全く思いもしない事であった。
ある意味、狭義に於いて「安藤組」の解散は「戦後」の終わりを告げる一事象であり、「東京オリンピック」は「脱戦後」の踏み切り台であった様に思える。「戦後」生れの戦争を知らない年代が、軽々しく「戦後」を口に出来ないが、確かに何かが変わろうとしていた時代であった。「高度成長期」と言われた時代の登り口であり、「六十年安保」の洗礼と学習と共に、文化や思想等に幻想であれ期待を待たせて呉れていた。混乱した戦後に自然発生し身勝手な論理で組織を構築して、必要悪とされる時期をも経て来た「安藤組」が、ささやかな義憤を以って引き起こした襲撃事件をきっかけに解散する姿は、「やくざ映画」の一パターンであり、「やくざ映画」そのものの逝く末を暗示していた。


20.映画三昧 要注意歌謡曲指定・・・・「網走番外地」を聞いていた頃

 毎日だったか週一かは遠い昔の事、当然失念してしまったが「テイチク・アワー」なる十五分程度のラジオ番組が夕方にあり、専属歌手三波春夫に思い入れていた自分には楽しみな時間であった。「東京五輪音頭」で「国民的歌手」と呼ばれるようになった三波春夫が、明治から百年を数える当時の繁栄を「百年桜」と唄い込み、「赤いハンカチ」「夕陽の丘」とヒットを続けていた裕次郎が、「俺はお前によわいんだ」や「王将夫婦駒」に次のヒットを狙っていた頃であった。
ある日耳にした「網走番外地」は、見事にマイナーなメロディに、高倉健の野太いぶっきら坊な歌声が決っていた。「春に、春に追われし花も散る」「キラリ、キラリ光ったひとつ星」「燃えるこの身は、北の果て」「遥か、遥か彼方にゃオホーツク」「赤い、真っ赤なハマナスが」「海を見てます、哭いてます」。悪がり粋がる年頃の無知な感性に全く見事に新鮮な歌詞は、それでいて哀感なり哀愁と言ったものの訴えが感じられ、退廃的で単調な旋律と相俟って、将に旋律的であり、「その名も網走番外地」で感情移入の頂点を極めさせて呉れた。


21.映画三昧閑話 函館郷愁交々・・・・どうせオイラの行く先はその名も函館流れ者

 船場町で過ごした一年時の下宿代は、日祭日も三食付いて8000円だった。友人の話によると、日祭日は昼無しで云々、一食抜くと云々と言った具合に様々な設定はあったが、6000円位からが下宿代相場であった。その意味では高い方の下宿だったが、飯が良く美味しかったし、何よりも常識的で、家庭的であった。
その常識的家庭的が、同郷同宿人の引っ越した辺りから、要するに机に向う「枷」の様なものが無くなった気がしてしまった勘違いから、息抜きに擦り寄る自分には重荷になっていた。思いやり、見守りと言った「下宿のおばさん」の気持ちが、「下宿のババァ」の口うるさい干渉にしか思えなかった高校一年生は、自由と自堕落を履き違えてしまった。
雪の振る前の靄の濃い日曜日に、友人の手と軽トラックを使わせて貰い引っ越した、三畳一間一人部屋の下宿屋「まどか荘」は、初代「五稜郭タワー」が建築中だった史跡五稜郭の東南の端に隣接していた。ここを振り出しに、二年時に二度の引越し、三年間で五軒の下宿を移り歩いた函館流れ者が始まった。三年時を過ごした湯の川のは、やはり日祭日も三食付いて10000円でここも居心地食事共に満点であった。
三年時の仕送りが20000円だったのを記憶しているので、一年時のそれは15〜16000でなかったかと思われる。下宿代と3000円まで行かない授業料、そして電券(一日二枚綴りの路面電車乗車券)を引いて、手元に残った3〜4000円は銭湯と外食、映画代に消えていた。銭湯や映画の代金は覚えていないが、苫小牧函館間「急行すずらん」の座席指定片道学割運賃は990円だったと鮮やかに覚えている。因みに森駅の「いかめし」が50円だった時代で、パチンコ玉が一個2円であった。


22.映画三昧閑話 モデルガンあれこれ・・・・「犬シリーズ」と「マカオの竜」

 60年頃からのウエスタン・ブームに触発され鉄板で無い、より本物に近いであろう玩具の「GUN」がブームとなっていた。所謂「モデルガン」と呼ばれたもので、その走りは米国製マテルやヒューブレイ社のSAAやガヴァメントを改造し、排莢機能を持たせたり黒く染色したりしたものであった。亜鉛合金を鋳造したモデルガンの第一号は,ワルサー社製に存在するものに似せた「VP(ベストポケット)モデル」であった。そして「S&Wチーフ・ススペシャル」「ワルサーPPK」と続き、殊に「007 ジェームス・ボンド」人気を当て込んだPPKは爆発的ヒット商品となり、モデルガンに市民権をもたらせると同時に、実銃に馴染みの無い社会では手軽に悪用されもした。
 十七歳のガンマニアKが渋谷の銃砲店に押し入り、ライフル銃を好き勝手に発砲し、山手線を止めてしまったのがこの年で、実名で報道された大事件であった。銃にまつわる事件を受けて、材質はどうあれ金属の質感と重量感を持つモデルガン、単なる黒染めであっても黒いモデルガンは真正拳銃を彷彿させるとして社会問題視されるに至った。その為、モデルガンに先鞭を付けた製作販売会社MGCは、四作目の「ブロウニング1910」の販売を十八歳以上とし、住民票の送付を義務付ける自主規制を行った。直ぐに有耶無耶になった規制だが、十八歳未満の自分は友人の住民票を借用し、通信販売品を新川町の友人宅まで取りに行った雪の日の思い出が懐かしい。
 万物の悪用が所持使用する者の姿勢如何に起因している事は、自動車の例を引くまでもないが、モデルガンは規制の対象となる要因を多く孕んでいるのも事実であった。住民票の提出に始まり、銃身に貫通不可能なインサートが施されたり、白若しくは黄色の塗装、玩具であると言う刻印等々、規制の歴史がモデルガンの宿命であり歴史であった。
 小道具として気楽に貸し出して貰っていたと言う映画の現場では、警察の実銃管理が厳しくなったこの頃から、自前の電着発火式「日活コルト」等とモデルガンの競演が観られるようになる。「大映」の「犬シリーズ」は、「ハンド・エジェクター」と名付けられ市販されていたモデルガンを、田宮二郎扮する鴨居大介なる得体の知れない正義漢が、コミカル軽妙なガンプレイを観せ、「しょぼくれ」と呼ばれる天知茂の刑事と大阪どっぷりの坂本スミ子とで絶妙な掛け合いで楽しませて呉れた。65年「宿無し犬」から始まり、67年の「勝負犬」までの九作品があった。
 住民票の要った「ブロウニング」はTV映画「0011 ナポレオン・ソロ」の人気にあやかって、エクステンションバレルとロングマガジン、スコープとストックをアタッチメントとした「アンクルカスタム」擬きが製作され、後年、アキラの「マカオの竜」(65年)に姿を見せていた。「チーフススペシャル」の撃鉄を削りモデルアップさせた、「センチニアル」が発売されたのもこの頃だった。


23.映画三昧閑話 朝帰りの「深夜興行」デビュー・・・・格好の仮眠処青函連絡船の青森行

 常識的家庭的下宿に居た結果、「深夜興行」デビューは亀田町「まどか荘」に移ってからだった。未だ柵なり塀なりの無かった史跡五稜郭の堀端を歩いて、建設中のタワー下を抜けると、電停「五稜郭公園」に続く繁華街が灯を瞬かせていた。電停への左側に在った「五稜郭東劇」で三本立てを観て、店先でおでんが湯気を上げている隣の食堂で夜食を済ませ、二十分位市電に揺られて「松風町」まで行き、休日前夜の身を「深夜興行」に委ねるのが大概であった。「五稜郭東劇」は「日活」作品が主流で、照度も反射率も悪いスクリーンでの「出撃」「無頼の徒 さぶ」が記憶に残って居る。
 二年生に進級出来たであろう春休み、中学時代の友人三人と函館青森への鈍行旅行を敢行した。森駅で「いかめし」と共に買い求めた「えび天弁当?」は、甘辛く味付けされた甘えびの天ぷらが白米を覆って乗せられていて、後を引く美味しさがあったが、その後終ぞ見掛ける事の無かった「幻の駅弁」であった。急行で四時間の苫小牧函館間が何時間掛かったかは覚えていないが、何の宛てないふらり旅の第一夜は三畳一間のトリプルユースであった。青函連絡船百十三キロ四時間の船旅で着いた青森でも、特段することも無い旅の宿泊先は「深夜興行」の映画館、何度目かのアキラ「ギター抱えた一人旅」他の三本立てであった。
 「深夜興行」のはねた後、幾度か「青函連絡船」の旅をするようになる、思えばこれが端緒であった。


24.映画三昧 「東映任侠映画」開花宣言の春・・・・鶴田親分「関東」、健さん「番外地」シリーズ

 「大映」のヒットシリーズとなる「兵隊やくざ」「若親分」が封切られた頃、無事進級出来た4月は「網走番外地」「関東流れ者」が公開され、将に「東映任侠映画」開花宣言の春であった。
 宇都宮の渡世人大谷清次郎(鶴田浩二)と馬頭三五郎(大木実)の仁義と絆を、「弾き出された半端な命、捨てても未練が有るじゃなし」と謳い上げた「関東流れ者」は、任侠世界に於ける「義理も人情も紙風船だ」の暗黒の真実に敢えて眼をつぶり、挿入歌「兄弟仁義」の「こんな小さな盃だけど、男命を賭けて呑む」に縋って信じ込み、被虐性を美意識にまで昇華させるに足るものであった。
 後に傑作秀作とされる他作品に、完成度と言う点では及ばない上、感情移入の着火点であるプログラムピクチュァーとしての後見作品群も、未だ集積されていない時期にあって、「博徒」よりは少しだけ「表社会」方向に振られた、その後の「東映任侠映画」を模索した作品と言えよう。追い詰めた敵役の親分内田朝雄の命乞いをする娘藤純子に、振りかざした脇差の持って行き場を見出せない鶴田親分が居て、この格好悪さが鶴田浩二の格好良さと映った作品でもあった。
 冒頭の警察主催剣道大会で、博徒同士が優勝争いをする大らかさが良く、勿論鶴田親分が優勝するのだが、遺恨を持って闇討ちを掛ける三五郎と心を通わせる筋立ては、何とも良き時代を彷彿とさせていた。この時期の大木実は見事に渡世人に嵌っていて、実直一直線の役柄そのままに「東映任侠映画」の推進に寄与したもの大であった。
 本篇「関東流れ者」に併映されたのが、白黒作品の「網走番外地」であり、流氷の連なるオホーツクの沈んだ光景に、「遥か、遥か彼方にゃオホーツク、赤い真っ赤なハマナスが・・・」の主題歌で始まる、関東龍神一家橘真一(高倉健)の母恋脱走劇であった。
 「脇差を、脇差を片手に殴り込み、斬った張ったのこの渡世」の科で「人里、人里離れた山の中、この世に地獄があろうとは」に収監された真一が、母親の危篤を知り「ひとり、ひとり暮らしのお袋に、極道重ねた罰当たり」の悔恨を持って、手錠のままの脱走を敢行して失敗するだけのストーリーであった。しかし、捨て台詞を呟くように吐きながら、トッポイおとこ気を存分に魅せた高倉健が水を得て素晴らしく、嵐寛寿郎、南原宏治、田中邦衛、阿部徹、砂塚秀夫、待田京介等の癖ある個性がぶつかり合う「ム所環境」が白黒のスクリーンを彩った結果、高倉健の人気を不動にするまでにシリーズとして成長する、「添え物作品」発の第一作であった。


25.映画三昧 「赤い夕陽に背を向けて、無理に笑った渡り鳥」・・・・ロケ地函館 

 カラー作品となったシリーズ二作目の「続網走番外地」が、「関東やくざ者」と共に封切られたのは夏休み前だった。ロケを追い駆けはしなかったし、ロケ風景に出会いはしなかたが、函館の街はその港町としてのノスタルジックでエキゾチックな佇まいと、詩情を感じ得ずにはいられない風景と手頃な街の大きさから、多くの作品ロケ地として使われていた。自分の高校生活三年間だけでも、そして自分が知る限りでも、前出の「夕陽の丘」と本作「続網走番外地」が有り、この後、安藤昇「逃亡と掟」と渡哲也「骨まで愛して」のアクションもののロケ地となっている。他にこの時期「飢餓海峡(東映)」「落葉の炎(日活)」のロケ地に使われたことになっているが・・・。
 一作目の人気に急遽、と言った感じの「続網走番外地」は、急製乱造そのものの作品であったが、人気シリーズ派生の勢いがあった。函館へ向う連絡船の左手に函館山が見えたり、16mmフィルムと思しき寝惚けた画面が繋ぎ込まれたり、とロケ隊移動中の時間をも惜しんだ撮影の苦心が見て取れる愛嬌があるものも、シリーズパターンの原型が随所に散りばめられていた。歌詞を変えて主題化が挿入されるのもそのひとつで、函館駅から連絡船桟橋への通路辺りで撮られたラストシーンに、「馬鹿を、馬鹿を承知のこの稼業、赤い夕陽に背を向けて、無理に笑った渡り鳥、その名も網走番外地」が映えていた。
 函館ロケは日活作品に馴染みがあり、有名どころではアキラの「渡り鳥(日活 59年〜62年)」シリーズ、実質第一作の「ギターを持った渡り鳥」と最終作「北帰行より 渡り鳥北へ帰る」が思い起こされる。「赤いハンカチ」も函館ロケとされているが、何度観直してもその箇所を見付ける事が出来ないでいる。


26.映画三昧 任侠スター発掘の鉱脈を求めて・・・・高城 梅宮 千葉 松方ら

 鶴田浩二「関東やくざ者」が役名大谷清次郎を引き継いで北関東での、シリーズ二作目として製作された後、鶴田高倉の競演作品「日本侠客伝」三作目「関東篇」が公開され、この二人を以っていよいよ「東映任侠映画」は、満開に向けて開花を重ねて行く事になる。
更に鶴田浩二は「次郎長三国志」シリーズも併行させながら、「暗黒街仁義」を撮って「博徒」「関東」に次ぐシリーズを模索していた。
 一方で鶴田高倉に続く任侠スター鉱脈発掘が着手され、錦糸町のラストシーンが記憶に残る高城丈二の「無宿者仁義」や「流れ者仁義」が製作され、鶴田浩二の「暗黒街」「無頼漢」と続いた「仁義」シリーズとの混乱もあった。松方弘樹の「明治暗黒街 やくざGメン」、翌年の梅宮辰夫「遊侠三代」千葉真一「浪曲子守唄」等と若手が着流し振りを披露するが、終ぞこの中から鶴田高倉に次ぐ任侠映画主演スターの輩出はなかった。尤も「東映任侠映画」群として記憶に残る作品はないではないが、彼等が力を見せるのは「任侠映画」衰退期であり「実録路線」に変わってからの事であった。
 任侠映画スターとして華やかさには欠けるが、任侠映画創生期とも言えるこの時期に多くの作品に顔を見せていたのが、意外にも歌手村田英雄であった。主題歌を唄った「人生劇場 飛車角」と前後して「東海遊侠伝」等日活作品数本に出演し、その後「浅草の侠客」辺りから東映専属の様な出演本数を数えている。「任侠男一匹」「男の勝負」等主演作も多く、歌手としての持ち歌から来る男くささと、浪曲出身と言う格好の台詞回しが功を奏し、その知名度が未だ層の薄かった出演陣の一角を占めさせたと思われる
 梅宮辰夫に関してはこの頃から、多少系統の違った路線「お色気併映作品」を主演作として持っており、「夜の帝王シリーズ」と名付けらた「ひも」「いろ」「だに」「かも」等に分野を開き、この流れが後の「番長シリーズ」に繋がって行く。「お色気併映作品」は「番外地」が人気となれば「おんな番外地」を、「日活」作品「非行少女」が話題になれば「非行少女ヨーコ」を、と言った様に分別無く製作されていた。こうした傾向は「東映」に限らず、各社似たような併映作品に手を変え、品を変えていた。


27.映画三昧 いよいよ時代劇残饗・・・・「幕末残酷物語」と新撰組

「東映任侠映画」は「髷の無い時代劇」とも言われ、その隆盛は辛うじて「大殺陣」「集団奉行所破り」等「集団時代劇」で繋いでいた「時代劇」の終焉を示していた。時代劇最後の太刀回りは、「東映時代劇」を支えていた中村錦之助と大川橋蔵が担う事になるのだが、その主演作品名を見るだけでも「任侠」方向への歩み寄りを見る事が出来る。橋蔵は「大喧嘩」「御金蔵破り」「任侠木曾鴉」「天保遊侠伝 代官所破り」であり、「ばらけつ」「旗本やくざ」等で新基軸を模索するも策が尽き、「銭形平次」等でTV映画への活路を斬り開いて行く事になる。錦之助は「武士道残酷物語」に続く大作「仇討」、シリーズを完結させる「宮本武蔵 巌流島の決斗」を終え、「日本侠客伝」の主演を高倉健に譲り「股旅 三人やくざ」「沓掛時次郎 遊侠一匹」で髷を結うが、「花と龍」「花と龍 洞海湾の決闘」で侠客を演じ、66年5月の「丹下左膳 飛燕居合斬り」を最後にしばらく「東映」を留守にする事になる。
勧善懲悪のお伽話が主流だった時代劇も、その終焉期では人間性に焦点を当て、擬音や流血と共に思想をも主題とする作品が、武士道を疑問視し否定すると言った形で制作されていた。芹沢鴨の縁者であって竜馬の間者と言う、誠に劇的な主人公で描かれた「幕末残酷物語」は、監督加藤泰のそうした観点からの新撰組ものであった。幕末の混乱期故に武士になることが出来た浪士集団が、武士で在り続けるために有形無形の武士道に固執し、自虐なまでの厳しい隊則を以って、都合の良い自戒を強いる狂気の集団として新撰組を位置付けた作品であった。
存在した僅か四、五年の間に二十八人もの切腹、斬首者を記録する異常さは、如何に幕末とは言え常軌を超えていよう。しかし幕府から軍制組織の「組」の称号を拝命した浪士達にとって、「武士」と「武士道」に命を賭けて殺戮を重ねるのが、執るべき唯一の道だったとも言えよう。「毒には毒をもって制す」「御用暴力団」「特殊警察部隊」と新撰組を位置付けた監督加藤泰の、視線の確かさを感じた「幕末残酷物語」であった。尤も、そう感じたのはかなり後になっての事であって、話の暗い残酷な殺戮白黒映画でしかなかったのが当時であった。加藤泰監督は同じ様な視線で後年、「炎のごとく」で会津の小鉄に絡めた新撰組を捉えている。


28.映画三昧 新撰組雑感・・・・武士道或いは侠客道の雑感

 浪士と無頼の徒、権力下の組織としての「組」と逆説的に認知された「組」、浅葱のダンダラ羽織に「誠」の旗印と印半纏に代紋、武士道と任侠道或いは侠客道、新撰組とやくざ組織はその存在の有り様として同一視出来よう。
 武士道と侠客道が似て非なるものか、非して似たものかの論拠は持たないが、共に理想とする精神の在り方を説くものと理解は出来る。源平以来連綿と続く武家社会に於いて培われ築かれた、謂わば武家政治の根幹を成すのが「武士道」であり、カブキ者が世間に背を向けた悪場所の掟が「侠客道」であろう。成文化された憲法でさえ解釈の違いが散見されるのが常である、まして精神の道を説く二つの「道」の解釈は多岐に亘っていて必然であろう。「武士道とは死ぬ事と見つけたり」と「赤き着物か白き着物か」に差異は無く、違いは公私に起因するものと言い切るのは乱暴過ぎるであろうか。
 幕府統治下に於ける未認可組織は、公称である「組」を名乗ることが出来なかった。その栄えある称号を与えられた浪士達にとって、「組」は「武士道」そのものであったと思える。当然やくざ組織は「組」を名乗れる筈もなく、この事は「清水組」でなく「清水一家」であり、「国定組」でなく「国定一家」であった事に見るられよう。「組」と言う冠称には官称としての格式と「め組」等から来る「いなせ」な響きあり、明治の元号も馴染んだ頃には土建港湾業等に拡がり、やくざ組織にまで及んで行ったと推察出来る。
 ともあれ函館には五稜郭に代表される箱館戦争の古跡が、歴史としては旧幕脱走軍の将である、新撰組副長土方歳三に縁のものが散在している。若松町の一本木関門跡は土方戦死の地としてあまりにも有名で、その碑に供えられる花は絶えたことはない。現存する端整な肖像写真はアイドルキャラクター的扱いで、多くのグッズに加工され土産品店に並んでいる様は、判官贔屓を超え新撰組の狂気も超えて「伝説のヒーロー」の域に達していよう。
 雨戸の潜り戸から土間に入り、羽織を脱ぎ虎徹を静かに抜いて斬り結びながら二階へ、階段から転がり落ちる勤皇の志士。池田屋の近藤勇と新撰組のあるべき姿は決っているのであって、鞍馬天狗とは敵味方を超えた友情がなければならないのである。そうした観点で、監督加藤泰の視点は視点として、私の好みに合わなかったのが「幕末残酷物語」の新撰組であった。


29.映画三昧閑話 百人下宿「まどか荘」・・・・三畳一間の生活寸景

「まどか荘」は木造モルタル二階建て、上下に廊下を挟んでハーモニカ状に三畳一間が並ぶ大所帯、百人下宿と称される下宿屋だった。柏木町の電停を降り、東高校の正門を右に見ながら突き当たる五稜郭公園の外れを左にした、当時は「字亀田」にあった。下宿の裏はひたすら野ッ原、真っ直ぐ延びた鉄道線路の跡地を行くと、有斗高校の脇を通って日吉町のラサール高校近くまで一本道であった。
他校の生徒も混じった下宿屋生活の様々な個性の同居は、乱雑で楽しく、幼い世間の目を開かせて呉れた。ほぼ全部の同居人でソフトボールに興じた日曜日や青丹赤丹猪鹿蝶花見で一杯に明けてしまった朝、強面「番長クラス?」との幼い戯れ、幾つかの部屋から漏れる様々な音楽音声等々、高専の上級生と英語で「白鯨」を読もうとした、長続きしなかった努力の一瞬もあった。
椴法華で漁業を営む下宿屋の食事は、焼いたか煮たかの朝夕連日「お魚定食」で、「肉類」を渇望する年代の不満は尽きなかったが後に、回りの人間より魚の食べ方に長けているのに気が付いた時は、妙な懐かしさを覚えたりもした。持たされる弁当のおかずが「煮豆」一色の事もあり、気の毒に思った友人がおかずを分けて呉れた事も懐かしい。


30.映画三昧 十八禁(成人指定)への第一歩、「血と掟」

 「裏社会の表」を情感たっぷりに描いて隆盛していた「東映」に対し、「裏社会の裏」で「やくざ映画」に斬り込み参入したのが「松竹」であった。その作品、元安藤組組長安藤昇主演の「血と掟」は十八禁(十八歳未満入場禁止)の成人指定映画として、やはり同く指定された大島渚監督の「悦楽」と共に公開された。正確には独立プロ「第七グループ」制作で「松竹」配球の形を採っていて、正面切って「やくざ映画」如きに手を染めないと言った老舗「松竹」の面子とお家の事情が見え隠れしていた。
 背伸びした緊張感を漲らせて「函館セントラル」の一線を越えた十七歳の高校生は、モノクロームの押さえた画面と言うより、独立プロ故の低予算光量不足の画面に魅いって行った。「東映任侠映画」で見慣れつつあった「裏社会の表」とは異質な世界で、丁度、華麗流麗な東映時代劇の殺陣を見慣れた眼に、「用心棒」「椿三十郎」の黒澤作品が飛び込んで来た時の様な迫力を覚えた。小林正樹監督「切腹」やTV映画から出発した五社英雄監督の「三匹の侍」、そして「東映」の集団時代劇の殺陣や擬音に本物を観たと思い込んだ感覚が蘇えっていた。自伝「激動」と映画「血と掟」の後先は失念したが、物語ではない実話と思い込んだ画面に描かれる真迫力の暗黒世界に、紫煙の煙るスクリーンで釘付けにされていた十八歳未満の十七歳であった。
 乏しい知識から来る安藤昇本人の既成概念と実際の存在感が混合され、脇を固める俳優の馴染みの無さから来る不気味さが相俟って、血の匂いと痛みを目の当たりに体感している興奮を覚えた「血と掟」は、興行的にも成功を納め「掟シリーズ」が四作を数える事になる。三作目の「望郷と掟」には「松竹」が制作で名前を並べ、野村芳太郎監督がメガホンを採り、安藤昇が題字を揮毫するパフォーマンスがTVに流れる、と言った扱いに変って行った。「松竹」が関わって来ると比例し、映し出されただけで存在してしまう「裏社会の裏」の暗黒性や凶暴性と言ったものが希薄になり、むしろ「裏社会」の裏から表へ「掟」をかなぐり捨てて、義理なり人情の衣を纏って這い出そうとする方向性を持っていた。四作目の「炎と掟」に至っては制作「松竹大船」の単独であり、初期の裕次郎を育てた井上梅次監督作品であった。


31.映画三昧 「松竹」の安藤昇による・・・・やくざ映画の時代(前)

 「血と掟」の興行収益の結果から「松竹」は、独立プロ制作「やくざ映画」を矢継ぎ早に公開して行くが、その継続は余りにも短かかった。「掟シリーズ」に並行して竹脇無我や高宮敬二がシリーズ物を撮るが、大半が安藤昇作品の併映ものでいずれも軌道に乗る事は無かった。
 「やくざ」に「青雲」は無いだろう、と感じた竹脇無我の「青雲やくざ」は、案の定二作でシリーズを終えた。「男の紋章」の現代版を目論んだ様な作品であったが、「裏社会」に踏み込めない「松竹」の揺れを見せている様でもあった。竹脇無我は「日活」渡哲也、「東映」岡崎二郎と前後してデビューした「松竹の新星」であり、この後「怒りの男」等を撮るがアクション作品での期待にそぐわず、やがてTVに活路を拓いて行った。「仮面ライダー1号」で知名認知される藤岡弘も、この頃この周辺でデビューをしている。
 クラブ歌手役で安藤昇が出演し挿入歌を唄った「やさぐれの掟」に至っては、「掟」の名前を冠にして安藤人気にあやかろうとした際物中の際物企画であった。それでも際物が功を奏した面が若干あり、主演高宮敬二に加えて清水まゆみや初名美香、新藤恵美らで「東京無宿」「顔を貸せ」とスケ番ものが三作まで続き、「松竹」制作で無い独立プロものの際どさを見せていた。
 そんな中で、後の日活作品「斬り込み」に評された、「終わってみると皆死んでいた」を先駆けた様なのが「暴力の港 虎と狼」であった。漁港の利権を巡る浜虎と塩辰一家のの暴力劇で、いずれが虎か狼かは失念したが丹波哲郎と内田良平競演の田舎町での市街戦が凄絶な作品だった。丹波哲郎に幾分かの理があったと記憶するが、特攻帰りの虚無感に暴力性が際立っていたモノクローム作品、火野葦平原作であった。
 「掟」シリーズ二作目の「逃亡と掟」は函館が舞台で、当然ながらの函館ロケ、そして舞台挨拶が行われ生の実物の安藤昇を見て、「新宿無宿」の歌声を聞いたのが十八禁の「函館セントラル」だった。市役所付近の広小路のビル、松風町の通りと小路、見覚えのある風景に逃亡者南(安藤昇)が嵌め込まれ、刑事田中春男と対峙する立待岬、黒塗りの車に乗り込む文太組長の恐い顔等が断片として残る「逃亡と掟」である。


32.映画三昧 「松竹」の安藤昇による・・・・やくざ映画の時代(後)

 66年正月「望郷と掟」、3月「炎と掟」でシリーズを終え、社風としてやくざ映画に手を焼いた「松竹」は、野村芳太郎、山田洋次監督と親交の有った「東映」加藤泰監督を招聘し、安藤昇作品「男の顔は履歴書」を制作する。評論家大宅壮一氏が対談で安藤昇を表した言葉、そのものをタイトルにしたそれは「やくざ映画」ではないが、その範疇で語られる傑作となった。二作目の加藤作品は「阿片台地 地獄部隊突撃せよ」で、後年「東映」で制作された「懲役十八年」と共に、「加藤泰の戦中戦後三部作」として「やくざ映画」を語る際の一ページに加えられるものである。
 「松竹」の招聘策はマキノ雅弘監督にまで及び、「男の顔は切り札」が67年正月作品に並ぶが、「日本侠客伝」を焼き直した様な「粋・いなせ」なマキノワールドに馴染まず、マキノ一家の芸達者の中で浮いてしまった安藤昇が居ただけの失敗作であった。
 それから間もない2月、「白昼の惨殺」を最後に「東映」に移籍するまでの短期間が、「松竹の安藤昇によるやくざ映画の時代」であった。
 所謂「やくざ映画」に固執しなかった結果、「松竹」に「国民的映画」とまで評された長期シリーズ「男はつらいよ」の僥倖が訪れる。山田洋次監督が落語から題材を盗ったりしていた、「馬鹿」「風来坊」シリーズの愛すべき庶民派アウトローの延長上にある「寅さん」は、将に「松竹」ならではのキャラクターと言えるものであろう。
 松風町にさざめく灯ともし頃が訪れると、リアカーに設えられたおでん屋の屋台が小路や辻に散在していた。長めの、木枯し紋次郎が咥えていた様な竹串に、蒟蒻や竹輪に玉子、蒲天ウインナーから蛸烏賊、つぶ貝あわび等が刺し込まれバットの中で湯気を立てていた。隣に据え付けられたボールには、鶏ガラと削り節昆布で採った出汁を醤油と砂糖で味付け、小麦粉のトロ味を加え擂り生姜と胡麻を混ぜ込んだ浸けダレが食欲をそそる匂いを漂わせていた。勝手に手を伸ばし浸けダレに一度だけ潜らせ食して、残って並んだ串で料金を支払う自己申告システムで、酒類のない立ち食いのおでん屋だった。それぞれ自慢の味であったろうが、日活劇場前の辻に出ていた味が自分には一番美味だった。
決裂した話の興奮から屋台をひっくり返すシーンで、その重さから上手くひっくり返らず、「ガタン」とズレタだけの一場面が思い出される「逃亡と掟」では、床机とコップ酒が映されていたのを思いながらのもう一串、ボールのカーブと竹串の弾性が程よく、浸けダレに心地よく潜っていた。







2007/08/04
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